このところ、人知れず心労が続いていました。あまりに連続した仕事が心をむしばんだのか、人を信じられず、かつ自分にも自信がなくなる日々でした。誰のために頑張るのか、頑張っていることは人に伝わるのか、そもそもなぜ自分はなぜ頑張り続けるのか....
将来有望な若者が社会の軋轢で壊れたり、夢を実現する前に傷んだり、期待していた若者が、思いの外夢を見れなかったり...逆に私自身も若者を結果的に裏切ってしまったり、若者の手伝いをする時間がとれず、人知れず苦しんだり...もちろん肉体的な問題も徐々に出始め、自分自身の年齢を思い知る毎日は、私の心を陰鬱にするのに十分な影響を与えてきました...
そこへ、ニューヨークから一通のメールが来ました。この9月からアメリカに渡った、一人の若者からでした。この若者は新人研修時に知り合い、その後さまざまな人間関係等で相談に乗っていました。結局その仕事を離職するときも、その後の活動時もいろいろと心配しておりました。さまざまな出会いと出来事により、その若者は単身アメリカに渡ることを決心したようです。しかしながらその理由や背景に私自身納得いかない事情もあったので、出立前にあった際に強く叱ったまま別れ、そのご連絡がとれていませんでした。
その若者のメールにこうありました。
「もっと大きな視点で、また日本の底力をつくっていける仕事・生き方を目指したいと思いました。自分自身の(趣味程度の)満足と価値観に終始せずに・・・。」
「自分の世界の小ささに囚われ閉塞感にさいなまれて小さくまとまず、目標を見失う事のないよう努力を続ける難しさを覚悟しなければいけない事にも気づいています。」
この若者のメールを見たとき、うれしさと同時に若者のたくましさや、まばゆいばかりの生命力を感じ、嬉しいと同時に年齢に逃げ込もうとしている自分に気付かされました。日本を変える!という恥ずかしいような志を掲げながら、日に日に努力を怠っている自分の姿を、目前に突きつけられた気持ちがしました。
若者は若者なりに、世界から学んでいます。私が小さな世界であくせく這い回っている間にも、若者は自ら育ち、考え、そして力をつけているのです。先を歩く我々は、彼らの可能性を信じなければならないこと、彼らこそが日本を変えてくれることを信じなければならない、という当たり前のことに気付かされました。本当にオレは、なにをやってるんだろう。
ということで、また今日から頑張らなければならない自分を認識した一日でした。とはいえ、昨日痛めた腰のために、正直自分一人では衣服を満足に着れない状態にあるのですが...