■味わう酒と酔う酒
沖縄から帰ってはや1週間。南国より暑い東京の気温に、休暇で養った英気もあっというまに蒸散してしまった感じである。熱さは脳の芯までおよび、使い物にならない...
こんなときは、酒である。熱さでとろけた体を、アルコールで冷やす。煮詰まった心と脳がゆっくりとけ出し、ほっと一息が付ける。クーラーの効いた部屋で酒を飲みながら、南国の酒との違いを改めて実感する。
沖縄は飯がうまい。飯がうまければ、肴も美味い。肴がうまければ酒もうまくなるし、本当に沖縄はいいところだ。沖縄特有のカラカラという徳利に泡盛を入れ、肴に箸を付けながらゆっくり飲む。泡盛は、沖縄流の水割りがうまい。あまり冷やしすぎず、あまりきつすぎず。ほの暗い灯りと静かな雰囲気に、体が蒸されるようにゆっくり酔っていく。心の奥深くの栓がぬけ、疲れやストレスが流れ出す。「リラックス」という言葉を、思い出す。
ここで気付く。沖縄の酒は、酔う酒であることを。沖縄の夜は遅く、10時から朝まで飲み続けることはざらだそうである。人が集まれば、外で車座になって、酒を飲む。三線(沖縄三味線)と踊りで彩りをそえ、朝まで飲む。ゆっくりと、酔いを愉しむのである。
そういえば熱帯の酒は、こういう酒が多い。気温が高いため、きつい酒を一気に飲むと酔いが急激に回るし、暑さも増してしまうのであろう。そのため、ゆっくり飲み、ゆっくり酔いを愉しむ。人を含めた自然の音しかない空間で、ゆっくり酔いを愉しむのだろう。考えてみれば、昔の日本の夏も、こういった風景が当たり前だったのかも知れない。
いつしか我々内地人は、西洋文化の影響を受け、酔う酒から味わう酒に、酒の楽しみ方を変えてしまった。酒を味わうことが高尚である、という文化を強く受けてしまったようである。又酔いを愉しむから、酔うことに目的が写ってしまい、酒をあおるようになってしまう。酒が入れば気兼ねなくものが言える、酒の席だから無礼講、という理性中心の考えが先行し、本来の酔いを愉しむことを忘れてしまっている。つまり酔った結果が大切になり、酔いそのものを愉しむことを忘れてしまったのである。一言で言えば、ゆっくり酔えなくなった、ということか。
酒は文化である。酒が背負う文化がある。シングルモルトが背負うスコットランドの文化や、白酒が背負う中国の文化がある。バーボンが背負う文化もあれば、ウォッカが背負う文化もある。暑い国の風土、寒い国の風土、やせた土地の風土、豊かな土地の風土を背負って、酒が生まれるのである。その酒とともに文化がある。酒によって育った文化と、文化によって醸成された酒があるのである。それを忘れられた酒は、単なるアルコールである。
一人で静かな時間を過ごしながら、酔いを愉しむ。この心の余裕を、熱帯夜の東京で持つことができるのだろうか。沖縄のゆっくりした夜を、取り戻すことができるのだろうか。沖縄みやげのカラカラを眺めながら、考えてしまう。そろそろクーラーを切って、暑い夜を愉しむ余裕が必要なのかも知れない。