週末は義父の四十九日法要で、兵庫に行きました。この時期の関西は過酷に暑かったですが、無事法事を済ませることができました。
さて往復の新幹線の車窓からの風景で、すこしだけ気になったことがありました。独立して数年間は大阪に事務所も構えていたため、年に30〜40回ほど東京・大阪間を移動していました。したがって新幹線の車窓からの風景は見慣れていたのですが、今回浜松あたりの風景が変わっていたことに気づかされたのです。
浜松には浜名湖があり、その周辺には養殖用の池が沢山ありました。池には水車が付いており、攪拌することで水中の酸素濃度を上げるような仕組みになっていたように思います。こういった池が新幹線脇に数多くあったのがこれまでの見慣れた風景でした。もちろんこの池では、数多くの鰻やスッポンのたぐいが養殖されていたと思われます。しかしながら先日の風景では、この池の数があきらかに減ったように思われました。よく見ると、養殖用のビニールハウスも減ったように見えましたし、放置された土地が雑草の草原になってしまっているところが数多く見られました。
鰻の稚魚の値上がりと漁獲量の減少は、養鰻ビジネスを限界に押しやったことは間違いありません。鰻の消費量は世界中で増えていますが、肝心の産卵から稚魚の育成までのプロセスはまだまだ不透明な部分が多く、当面は資源の枯渇が予想されます。日本の鰻の稚魚は、遠くサイパンやグアムのそばのマリアナ海溝あたりで産卵・孵化したものと判ってきましたが、卵から稚魚にするまでの技術はまだまだ手探り状態であり、今後急速に養鰻ビジネスが活況を取り戻すことはないでしょう。
それと反対に増えたのは、空き地に連々と並ぶソーラーパネルでした。
それは見事なほど数が多く、あきらかにその勢力を増やしているようでした。そういえば兵庫の家内の実家界隈にも、沢山の数のソーラーパネルをみることがありました。昔は空き地だった所に、黒い板が連々と並ぶ風景は、土地の余っている田舎では普通のビジネスになっているのかもしれません。
これだけ生活に電気を使う時代になると、発電は重要になります。日本は資源に乏しい国ですから、火力発電はやはりコストが問題となります。その解決として考えられた原子力は、福島の事故以来ほぼ稼働できない状態ですし、今後も発電の中心となることは難しいでしょう。となると、やはりこれからはソーラー発電のように、低コストで発電できる仕組みが重要になるのでしょう。もちろんソーラーパネルの発電量は決して高くありません。アメリカなど大きな砂漠があるような国であれば、数キロにわたる大規模なソーラーパネルを展開した発電所を作ることは容易です。しかし国土が狭く平地も限られる日本では、こういった小規模発電所を多くの場所に展開した方が、発電量が確保出来ます。また自分の遊休地で発電を行えば、今後の送電の自由化によって大きな収益を上げられる可能性もありますから、養殖ビジネスよりより効率的なビジネスになる可能性も高いと思われます。
このように時代の変化とともに、車窓の風景が変わっていきます。そこには単に都市化の影響だけではない、新たな時代の要請が隠されている気がします。