阪神大震災から、20年が経ちます。
私の学生時代は、遊びの拠点が神戸の街でした。明石から大阪まで1時間半ほどかけて学校に通っていましたが、大阪の街よりも神戸が身近であり、毎日のように帰りは神戸により、ウィンドウショッピングや散歩、そしてたまにバイトの収入が入ると飲みに行っていました。
貧乏学生であったので、本当に路地裏の路地裏まで歩きましたし、その中でいろいろと面白い店を探すのが好きでした。三宮から元町につづく駅の高架下にも沢山のお店がありましたし、センター街や階上にある多くの店、そして路地裏の小さな飲食店など、暇に任せて本当に多くの店に出入りした記憶があります。卒業後は東京で就職したため、やや遠くなってしまった印象はありましたが、それでも親類縁者が西宮から三宮界隈に多く住んでいたため、年に何度かは神戸の街を訪れていました。
しかし20年前の1月17日早朝、マグニチュード7.3の地震が淡路島の北で起きました。神戸の街を直撃したこの地震は、神戸の街並みを本当に変えてしまいました。三宮の駅はつぶれ、駅前のそごうや新聞会館は座屈ました。フラワーロードにならぶビルも大きく傾き、数日のうちに倒壊してしまいました。パンケーキクラッシュしたビルも多く、異様な形に曲がったビルも沢山ありました。
灘では阪神高速の高架橋が倒れ、高速の通行を止めるだけでなく下を走る国道も止めてしまいました。多くの家屋が倒壊し、早朝の寝床で閉じ込められた方も少なくありませんでした。火災は次々と起こり、長田の街は数日間燃え続けました。人々は命を奪われ、家族を奪われ、生活を奪われました。死者は6400名余りにのぼり、戦後最大の地震災害になってしまいました。
翌日大阪の福島駅界隈で仕事が入っていた私は、地震の前日に大阪に向かうつもりでした。しかし東京の仕事が夕刻急に入ってしまい、新幹線が間に合わないことから偶然一日ずらした記憶があります。地震当日、起きてテレビをつけて、地震の状況を知りました。6時のニュースの時点では、死者数名と報道され、それほど甚大な地震とは思っていませんでした。しかし時間が少しずつ進む毎に、その被害の全容が明らかにされると、さすがに相当に甚大な被害が生じていることを認識させられました。神戸界隈の親類に電話をかけても、一向につながらず焦った記憶があります。当時まだ普及が進んでいなかった携帯電話を持っていたため、それを利用して通話したところ、数件の親戚に連絡をつけることができました。生命の無事を確認しましたが、みな家中の被害を把握できる状態ではなく、すぐに電話を切られた記憶があります。
後日状況を確認すると、建物の倒壊はなかったものの家中の家具が倒れた親戚が多く、復旧まで相当な日数がかかるといっていたことを今でも覚えています。ポートアイランドは三宮とつながる橋が倒壊し、孤島になってしまいました。人工島であるポートアイランドは液状化が酷く、ライフラインが見事に断たれてしまいました。高層のマンションが多いのに、そのエレベータが使えないため、多くの住民が生活に支障をきたしました。支援物資を送る道がないため、大阪から海路で支援が行われました。それでも数日後に電気が通電すると、今後はスパークによる火災が頻発し、地震で無事だった家屋も燃えてしまったこともありました。
私は震災から一週間ほどで現地に行きましたが、今でもその凄まじい光景を忘れることができません。ただ声もでず三宮を呆然とながめ、これが自分の知っている街とは思えなかった記憶があります。まっすぐ整然んと並んでいるはずのビルが、夢の中のように曲がり、歪み、壊れ、倒れている風景は、シュールレアリズムの絵画よりも超現実的だった記憶があります。
その後数年間の推移も、忘れられない記憶となっています。訪れる度に、復旧した電車の車窓から見える、プレハブの家とブルーシートの屋根が、少しずつなくなっていきました。その反面真四角で平らな家屋が増え、西宮をこえると周辺の街並みが一変してしまったことをよく覚えています。神戸の街も道そのものが変わってしまい、本当に自分がそこで生活していたのか、記憶が怪しくなることもいまだにあります。知っている街並みがまったく変わり、見ず知らずの新しい街がそこにあります。懐かしい店も今はなく、屋号が一緒でもまったく違った店になっています。
どんなに凄まじい状況であっても、人はそれを乗り越えて生きていきます。それでも昔の記憶は、新しい風景に上書きされることはありません。しかしながら古き街並みを失った街は今の街として生きていますが、昔を知っている人が日々減っていくことで、新しい風景だけがこの世に残っていくのでしょう。
阪神淡路大震災で亡くなった多くの方々に、哀悼の意を表します。