今年も残すところ、あと3週間になりました。
先週はDeNAのキュレーションサイトが、問題になっていました。私のホームページも人のことはいえませんが、時事的テーマについて何かを述べようとすると、必ず他サイトの情報を参考にすることは必須になります。これは過去の論文等も基本的には同じであり、他の知識や情報を基に独自の見解や主張を行うことはこれまでも行われてきました。しかし今回のキュレーション問題は、インターネットが生んだこれまでとはやや違った問題のようです。
インターネットを検索すると、いわゆる「まとめサイト」というものが近年頻繁にヒットするようになっています。時事的なキーワードに基づいてさまざまなサイトから情報を収集し、表現するようなサイトです。まともなサイトもあるようには思いますが、その多くが他サイトの情報をそのまま拝借し、説明口調や語尾だけを変えたものになっています。つまりすべての情報は他サイトからの引用であり、そこに独自の解釈や判断、主張などは一切ないのです。さらにその多くがWikipediaからの引用であり、その内容を口語調に変えただけものも非常に多く見受けます。
これらのサイトを作るのは、アフィリエイトのためです。アフィリエイトとは広告連動報酬といわれるものであり、サイト上の広告が閲覧される、あるいは直接広告サイトに訪問することによって報酬が発生します。となればとにかく時事的に流行っている言葉をさがし、それらしい内容でまとめをつくれば訪問者の数は多くなりますから、相対的に報酬は増えます。信憑性のあるなし、独自性のあるなしは特に関係なく、とにかく数多く書けばそれだけ報酬が入ってくる可能性がありますからどんどん増える一方なのでしょう。
また残念なことに、このように内容や文脈が同じであっても文章表現さえ変えれば、著作権の侵害にはなりません。オリジナルの記述は調査に時間やお金をかけていたとしても、それを登用することを罰する法律はありません。今回のDeNAのキュレーションは、医療分野などでないように疑義があるため問題となりましたが、他人の考えや情報を登用したこと自身は問題となっていないようです。
こういった現象を、私は昔から「情報の再生産」という言い方をしてきました。インターネットの普及とともにさまざまな情報が公開されますが、それらをまとめたり複数の情報をより集めるだけでは情報を生産したことにはなりません。すなわちその情報には独自性がなく、ただ他の情報を引用しているだけに過ぎないように思うのです。となると、ネットの上にある情報の多くがこういった価値の低いものになり、検索の効率や情報探査の妨げになる可能性があります。
さらに問題は、そのとりまとめ作業の中で、意図的あるいは意図しなくても誤謬や改ざんが生じて、オリジナルの情報と大きな乖離を生んでしまうことがあるという点です。専門性の高い分野ほどこれが起きがちですが、専門家は文章のニュアンスなどできちんと正確な情報を伝えていても、取り纏める側は素人であるため、会社のミスや誤解が生じます。となると、専門的にはまったく反対の情報が広まってしまい、それを見た人すべてが誤った情報を得てしまうことになるのです。ご存じの方も多いですが、私はある分野の専門学校に通った技術的職人という側面を持っています。しかしその分野に関するホームページやまとめサイトを見ると、専門的に明らかに間違っている、あるいは誤解している記述も少なくありません。それは仕組みを知らず表面的な事項でのみ理解をした結果ですが、それらが広がっていくと、正しい情報と誤った情報の比率が大幅にかわってしまい、単純に検索結果だけを見ると誤った方法のほうが正しく見えてしまうのです。
キュレーションに関する問題は過去から存在し、今後も広がっていく可能性はあります。大切なことは、キュレーションそのものよりも、拡散される情報の信憑性と、オリジナルの情報を公開した人間の権利を守ることだと私には思えます。情報を公開するのも生産行為であり、その行為には正当な対価が提供されるべきと私には思えます。その対価は金銭だけでなく、名誉や権威というものであってもかまいませんが、何らかの価値を提供することが大切です。
一方ネットの世界では、さまざまな著作を低額にしたり無料にしようとする取り組みが行われています。Amazon等が提供する低額での書籍や雑誌の読み放題、音楽の聞き放題がそれにあたります。さらに音楽や映像も二次利用の許可なくネットで私的に公開されていることも多く、著作者の権利を制限したり無視したりする動きも見られます。私は著作者の権利を守る方の立場ですが、一方人類の英知は万人のものであるから、皆で共有するというのも一つの考え方なのかも知れません。
このように今回のキュレーション問題から、インターネットが普及した新しい時代の常識を考える時代になったように思われます。旧弊な常識を盲信したり単純に否定することなく、どのような方法が万人にとって望ましいのか、そしてそれを公平かつ公正に運用するためにどのような仕組みを作ることが望ましいのか、我々はいよいよ真剣に考えなければならない時代になったように思われます。