連休明けて、早くも一週間が経ちました。
さて今年も多くの新人さんとお会いしましたが、やはり今年は今年なりの傾向があるようです。今年の一番の傾向は、「語彙力のなさ」でしょうか。デジタルネイティブの彼らは、生まれたときがWindows95の提供年になりますから、まさに成長そのものがITと同期している世代です。子供の頃からIT環境があるだけでなく、インターネットも十分に提供されていた世代でしょう。それに対して全国の書店の現在の数は、彼らが生まれた1995年から半分になっていますから、書籍そのものを身近に感じない世代なのかもしれません。それに対してコンビニの数は彼らが生まれた年の店舗数に比べ、6万店弱と倍近くになっています。となれば、雑誌を立ち読みするのはコンビニで、書籍は特に読まないという世代なのかもしれません。
その結果かどうかは解りませんが、彼らの語彙数がきわめて限られており、多くの方が自らの気持ちや考えを相手に伝えることが出来ません。その結果として平易な語彙を記号として使い、理解する側も記号として理解するため、そこに込められた背景や気持ちがお互いに理解出来ないというのが今年の特徴のように思えました。多くの企業の教育担当者の方に聞くと、昔に比べてとにかく読書量が減っているとのこと。ビジネス書や専門書はもちろん、文学に関する読書も限定的な人間しかできておらず、結果として語彙数が限られてしまっているようです。同時にそれは、個々人の想像力を奪う結果となりますから、やはり考える力の弱さにも繋がっているようです。この状況を変えるためには学生の時から読書習慣を高める必要がありますが、これだれ多くの情報がネットにあふれている以上、それは難しいことなのかも知れません。
しかしよくよく考えてみると、この傾向は中高年にも広がっているように思います。一冊の本をじっくり読むだけの時間的余裕がある人間は限られるでしょうし、ネットの抄訳の情報をつかんだ方がまだるっこしい背景や煩雑は知識を説明された書籍を読むより早いでしょう。言葉がなくてもPowerPointの図表さえあれば説明が付くように思うでしょうし、図表のパターンも無限にネットは示してくれます。結果としてテキスト分で他との説明が出来ず、図表に頼ったプレゼンテーションが中心になってしまうのかもしれません。
この問題は、AIを考えることとまったく同じのように私に思えます。AIも言葉を記号として認識し、その前後のつながりから意味を推測し処理を行います。しかしそこに感情もなければ、戸惑いや悩みはありません。相手がその言動をどう理解するかが問題ではなく、与えられた情報に対して極力一般的な解として記号を言語や行動に置き換えればいいだけですし、そこにそれ以上の付加価値が付くことはあり得ません。例えば現在のAI技術とロボット技術を応用して、お手伝いさんロボットを作ったとします。主の家に客が来訪した場合、主が「お茶を入れて。」と依頼すると、「お茶」と「入れる」という記号からお茶を提供するという命令を理解します。しかしお茶には緑茶だけでなくほうじ茶や紅茶、ウーロン茶がありますので、主の指向をもとに「紅茶でよろしいでしょうか?」という問いかけをするかもしれません。しかしお茶菓子が提供されることはないでしょう。
このように語彙数の低下がもたらす問題は、我々の社会生活を徐々に蝕む結果となるように私には思えます。曖昧でモヤモヤしたものを簡単な言葉で表現しても、そこに自分の考えや気持ちを伝えることは出来ません。さらにその記号の裏にあるものを想像できなければ、AI同様表面的な行動に終始し、人間の感情や気持ちを考えた振る舞いが出来なくなってしまうように思えるのです。
こう考えてみると、問題の本質は書籍を読む・読まないではなく、読まなくても自分の気持ちや考えを説明できるようにトレーニングできる環境が必要ということなのかもしれません。簡単な記号で分かったような気持ちになるのではなく、複雑で難しい人間の感情や考え、さらにそれを習得する際のメンタルフィルターの存在をきちんと理解出来るようなトレーニング環境を作るのが一番大切なのかもしれません。
そんなトレーニング環境を準備するより書籍を読む習慣をつけるほうがずっと安価で簡単なように思えるのは老頭児故といえるのかもしれませんが、たとえ高価で難しくても、そういった仕組みを作ることの方が社会に貢献する結果となる日が、間近まで迫っている気がします。