3月2週目のWeekly Reportです。
先週は大阪出張があり、仕事の翌日に休みを取って墓参りのあと京都に訪れました。京都は相変わらす観光客で賑わっていましたが、予想より欧米人が多いことが印象的でした。このところ観光地の外国人は中国人を中心としたアジア人が多かったのですが、春節の後の影響もあるのか、どこでも中国人よりも欧米人の多さに気づかされました。どこかの国に依存することなく広く観光客を呼び込めることは、観光地の収入の安定に繋がりますから、この傾向は望ましいことのように思えます。
さてハーフ京都人としての私は、京都の味覚を求めて毎度錦市場に訪れています。とはいえこの数年は錦の様相が変化してきているのですが、今年はさらなる変化に驚かされました。かつて錦市場は京都の台所と言われるように、ハモやグジ(甘鯛)を扱う魚屋を中心に、京都の素材を売る八百屋や肉屋、漬け物屋や豆腐屋、総菜屋などが軒を連ねていました。しかし近年の外国人観光者の増加とともに観光化が進み、こういった素材を売る店は少しずつ閉店していきました。跡地に入ったのは観光客向けの店であり、日本風の土産をうるさまざまな店が入っていきました。
この数年は食べ歩きが中心となり、既存の食材屋もきそって食べ歩きの商品を販売します。魚屋は刺身やすし、焼き魚などを小さい容器や串に刺して販売しますし、たまご屋は玉子焼きを串に刺して、総菜屋はコロッケや焼き鳥、といった500円程のテイクアウト商品を販売し、歩きゆく外国人が異国の味を楽しめる街に変わっていきました。その反面昔ながらの魚屋や総菜屋は減少していきました。もちろん店主の高齢化や後継者問題も大きいのでしょうが、それでも昔ながらの味をまとめて変える商店街がなくなることは、残念の限りです。
行きつけの魚屋や総菜屋はほぼつぶれてしまいましたが、昨年訪問したときには二軒並んだ蒲鉾屋(おでん種屋)の一軒が廃業するとの表示がありました。今回訪れてみると跡地にはこじゃれた店が入っていましが、驚いたのは残りの一軒です。これまでは同じような商品を扱う店が二軒並ぶことで競争原理が働いていたのでしょうが、一軒になった瞬間にそれが壊れてしまったようです。商品の数が減ったことも驚きましたが、何より値段が約二倍になったことにはさすがに呆れました。これまでは競争上薄利で頑張るしかなかったのでしょうが、競争がなくなった瞬間に上がりゆく地価と人件費を反映したように思えます。お店の事情を考えると仕方が無いのでしょうが、古くからの客としては残念の限りです。おそらくこの店を利用するのもこれが最後、と思いつつ買物を行わせていただきました。
一昔前から、観光課とともに京都に人間が錦市場を使うことはなくなったと思います。しかし私のような人間にとっては、近隣の大丸や阪急を含め京都の味を一カ所で買えるこの地は非常に有り難かったように思います。しかし観光化とともに買うべき商品が徐々に無くなっていき、ついには種類や価格も観光化してしまうと利用する意味が無くなってしまうのは時代の流れであり仕方ないことなのかも知れません。
京都の街中を探せば、錦市場と同じような商品を取り扱っている店を有する商店街も残っているとは思います。それでもそれを探すことは、この歳になっては面倒な限りです。観光化の影に、庶民の文化が少しずつ消えていくことを寂しがるのは年齢が故の現象なのかもしれませんが、色濃く残っていた食文化も消えゆくことは切なさを感じます。京都以外で、鯉の煮付けや各種の川魚の煮付けをかえるところを、私は知りません。京都の台所で出されたおばんざいを、数十種類もまとめて買える店も知りません。湯葉や生麩の専門店や、若狭の焼きサバを扱う店も知りませんし、焼鱧を扱う店も知りません。こういった今日の食文化を、庶民レベルで支えている街がなくなり、日本中のどこの観光地でも売っているような商品を扱う店に変わることを見守るしかないことは、日本人として本当に正しいのかという疑問すらわきます。
観光とは観光客に迎合することではなく、ありのままの姿を見せて楽しむものだと私は感じます。もちろん日本人だけが楽しめるのではなく、訪日する海外の人間も楽しめるように、言語などのインタフェースを多様化したりトイレなどの対応を行うことは大切なことです。日本の味を簡単に楽しめる工夫も、とても大切でしょう。しかしそれに注力する余り、本来のありのままの姿を無くしていくことは、結局日本各地の魅力を薄め、やがては観光客離れをうむきっかけになってしまうように感じるのは、私だけなのでしょうか。