6月に入り、連日新人研修が続いています。相変わらずWebセミナーだけのため通勤の疲労がない分肉体的には楽ですが、モニターを見ながら受講者の反応をつかみ、内容を適時選びながら話すのは精神的な苦労が多いいように思います。また年齢的に手元の資料を見ながら話したり、モニターに共有した画像を元に話すのも老眼の問題が発生し、なかなか目の疲れも取れません。体力的な問題は解決できても老朽化した体の部品の問題は常に発生しますので、なかなか上手くいかないものです。
これで通算6社ほどの新人研修をWebでおこないましたが、今年の新人さんは例年にも増して考える力が弱くなっているように思いました。論理的に考えることがこれほどできないというものかつて無い驚きに感じましたし、想像力も非常に乏しいようです。単純にYoutubeのせいと思いたくはありませんが、頭の中に具体的な事象を想像することが苦手なように感じました。さらに文字から得た情報を頭の中で具体的な状況に置き換えることもできないため、行間を理解したりそこからイメージを膨らませたりが非常に不得意なように思えました。
私が子供の頃、Youtubeはおろかテレビも十分にはなかったように思います。白黒テレビが一家に一台あるだけであり、夕刻のゴールデンタイムは親や年長の兄弟にチャンネル権を握られ、自由にテレビを見ることができませんでした。さらに今では信じられない白黒画像であり、主人公の着ている服や車の色を知る方法はなくただただ想像の世界で番組を見るしかありませんでした。
漫画の本も充分になく、簡単に手に入るのは図書館の本ぐらいでした。その文字を追いながら子供心に想像を巡らせる。見ず知らずの風景や見たことのない大海原を想像し、そこに自分や想像上の人や物を動かしてみる。これが私の子供の頃の一般的な遊び方だったように思います。想像した風景を記録するには絵を描くしかなく、絵にとどめた自分の想像をもとにさらなる想像を巡らせる。小説の続きは頭の中から絵に移り、その絵からまたさらなる物語が紡がれる。これが私の子供の頃だったように思います。飲んだことのないルートビアに憧れ、食べたことのないジンジャーブレッドの味を想像してみる。これが大人になるまでの楽しみだったように思います。
しかしながらテレビの普及とITの発展が、子供のこういった体験をなくしてしまったように思います。本を読むか外で遊ぶか、といった生活から、スマホをいじるかスポーツをするか、という生活に変わったおかげで子供の想像力が徐々に奪われてしまったように思います。子供の頃の読書習慣は大人になっても続くケースが多いと思うのですが、書籍から得る文字情報を画像に変える機会はどんどん減ってしまいます。これだけスマホやITが普及すると、見たことのない風景はもはや存在しないと思われますし、想像よりも具体的で完成を刺激する画像がそこにはあふれています。となれば、ストーリーに心が動いても想像は働かず、ただ小説を消費する機会が増えてしまうように思うのです。
SF小説を読んでもどこかの映画のシーンが浮かんでくるのでしょうし、超人の話を読んでも映画やアニメのヒーローが出てきてしまうのだと思います。かわいそうなことに本当の意味で想像を働かせる場が極端に減ったのでしょうし、その結果が若者の想像力を奪ってしまったように思います。さらに試験では、指示語や文脈から得られる文字情報のみを要求します。心象風景を言葉で説明した瞬間、想像は記号に押し込められます。その記号の正しさだけが採点の基準であれば、もはやそこには想像力が介入する余地はないことになります。
この傾向が年々強まり、論理思考や想像力の無い若者が社会にあふれていきます。そういった若者をつくったのは大人であるにもかかわらず、そこにイノベーションが生まれないことを嘆きます。教育学に明記されているように、想像は生まれ持った能力ではなく学習によって得られる能力です。その能力を育成してこなかったこの国の教育が、結局この国の首を絞める結果となっていることを、犯人である官僚と教師が1日も早く気づくことを私は心から願っています。